有沢橋(ありさわはし)を歩く
有沢橋(ありさわはし)を歩きました。
県道富山小杉線(地元の人は有沢線と呼んでいます)にあり、富山市有沢から布瀬、神通川に架かる橋です。国道8号線にある中島大橋、359号線(さんごくせん)の婦中大橋についで交通量がとても多く、朝夕混み合う時間は避けたくなる橋かなぁ。。。
上下線あって、写真右の上流側の橋が下り専用の旧橋。昭和39年竣工。曲弦ワーレントラス7連。橋長457.4m 幅員6.0.m。
写真左の下流側にある橋が、上り専用の新橋。昭和47年竣工。3径間連続平行弦ワーレントラス+2径間連続平行弦ワーレントラス。橋長457.6m 幅員10.7m。
上下線二つで一つという橋はここの近くにランガーガーダー橋の神通大橋があります。
江戸時代から「有沢の渡し」があり、1892年明治25年に木橋が初めて架けられました。
その後、
大正15年 継ぎ足し 木橋
昭和27年 架換 単純ワーレントラス5径間+木桁
昭和39年 改修 ワーレントラス7径間
昭和47年 併設 3径間ワーレントラス+2径間ワーレントラス
と、橋は姿を変えています。
昭和36年の豪雨災害で木桁部分が流され、改修されてアールのかかった今のトラス橋(旧橋)になったのですが、富山空港ができたことで新しく道路が作られて、このあたり商業施設も充実してにぎわうようになり、住宅も増えて、交通量が増加してきたために昭和47年に下流側に橋を新設。今の橋の状態になりました。
昭和20年8月1日の富山空襲では富山市街地99.5%が焼けてしまったと聞いています。約3千人が亡くなり、8万8千人が怪我。焼け残ったものは、今は取り壊されてしまった大和デパート、そして電気ビルと県庁しかなかったと。
今の富山の中心街からは想像もできない景色なのですが、70年かけて作り上げた富山市の歴史とこの有沢橋の歴史はちょっとかぶる感じがして、感動します。
大門大橋(だいもんおおはし)を歩く
大門大橋(だいもんおおはし)を歩きました。
県道高岡青井谷(あおいだに)線、射水市枇杷首(びわくび)、大門(だいもん)間。庄川に架かる橋です。
橋長433.5m。幅員6.0m。昭和37年竣工。曲弦ワーレントラス+活荷重合成鈑桁橋。ライブカメラも設置されていて、橋の周囲の様子がいつでも見られる!
この橋のある県道は旧北陸道で、歴史的な建築物も残っていて歩くと面白いです。面白い地名も残っています。「道番」(みちばん)、「戸破」(ひばり)、「三ケ」(さんが)など・・・
橋の歴史もとても古いです。
今ある場所よりももう少し下流側、あいの風とやま鉄道の庄川橋梁のあたりに1646年に初めて橋が架けられたのですが、
その後、洪水で流され、川の様子も変わって中洲ができたりして、1666年に中洲まで右岸から橋を架けて、中洲から対岸の大門までは渡し船を使ったそうです。(左岸、右岸は河口に向かってそれぞれ左側、右側を指します)
不便さを見かねた高岡の挟客「大長」がその後、大門大橋のもととなる橋=「大長橋」145mを架けました。すごい!
挟客といってもピンとこない人が多いかもしれませんね。私は「きょうきゃく」とキーボードを打つと「橋脚」になってしまいます。。。
それから20回以上架け替えられています。
明治期から見てみると、
昭和27年木土橋(大門大橋)
そして、昭和37年に今の大門大橋が完成。
橋の名前が変わっていくのが不思議ですがそれよりも昭和37年まで土と木でできていた橋だった、というのがやはり驚きです。
大門大橋は一度見ると忘れられない真っ赤な橋です。
枇杷首神社と大門神社の秋のお祭り=大門曳山祭りのときに花山車4つがこの橋を渡ります。
リアルな写真を持っていないので残念。大門大橋で検索するとこのお祭りの様子がたくさん出てきます。
このお祭りに出る4つの町の曳山のイメージの装飾が橋の親柱に施されています。枇杷首、西町、そして田町と中町は隣接する錦橋の親柱に。
この橋は大門町の誇りなんですね。
昭和37年、トラス橋となったわけですがこのトラスが高さ7.5mある曳山を通行を妨げて、4つ全部が橋を渡ることができなくなり、そのためにというのではないかもしれないけど、その後、新たに橋の上になにもないデッキ橋の歩道橋が平成8年にできました。曳山は全部通れるようになってめでたしめでたしです。
枇杷首から。歩道橋を歩きます。親柱には曳山を連想させる装飾があります。これは枇杷首の曳山のイメージ。きんぴか〜。そして照明と、高欄には庄川河畔で行われる凧揚げの凧と鮎のイメージのデザインが施されています。
正面は長方形、側面は6角形になっていて面白い。そしてちょっとかしいでいるのも。
デッキがあります。庄川上流側を眺めました。
この日はお天気がよかったので鮎釣りの人が出ていました。富山では庄川の鮎か、神通川の鮎か。どっちが美味しい?なんて話をします。私はどっちも同じと思うのですが、一年に一度子持ち鮎を食べに行くのは庄川にあるお店。。。
大門側の親柱。装飾は西町の曳山のイメージ。
毎年秋にはこの歩道橋を4つの曳山が「橋渡り」します。
トラスが障害になって橋渡りが不可能になって、
4つある曳山のうちの枇杷首の曳山は改造までして橋渡りをしたとか。
昭和47年に添架された歩道(ここは曳山は通りません)。
車道のトラスが曳山の運行の障害になるなんて想定外だったんだろうな。
歩道の脇に付けられている照明。川面を見るため??
それにしても水が澄んでいるのにびっくり。
大門側の歩道の高欄は結構傷んでいました。
平成14年に右折レーンが作られたので歩道もこんな感じに曲がってます。
河原へ出て歩道橋を覗き込みました。何か作業をしておられました。
大門側には錦橋という和田川に架かる橋がすぐそばにあります。和田川が庄川に隣接して流れているからですが、まるで大門大橋の取り付け道路のように思ってしまう。
錦橋の親柱。中町の曳山の鳳凰をイメージ。
大門大橋を背中にして枇杷首方向です。
大門大橋の枇杷首側にある錦橋。親柱は田町の曳山のイメージ。
和田川にかかる鋼鈑桁橋。約36m。幅は6m。
大門大橋の歴史がわかって、北陸道のことが少し勉強できました。橋を歩くのはやっぱりいいなぁ。
庄川橋梁(あいの風とやま鉄道)
あいの風とやま鉄道の庄川橋梁です。(手前が下り線、向こう側は上り線)
高岡市三女子(さんよし)射水市大門(いみずし、だいもん)間、庄川に架かる鉄道橋。
開通は昭和38年とされていますが、実は高岡大橋(昭和12年竣工)よりも古いのです。
上り線(上流側)は曲弦プラットトラスと平弦ワーレントラスと上路プレートガーダー。533.2m。
下り線(下流側)は平弦ワーレントラスと上路プレートガーダー。536.4m。
橋脚は全部ではありませんが、コンクリートではなく石が積み上げられたようになっています。
下り線とダブって見えて判りづらいのですが、手前上り線はトラス部分が平弦ワーレントラスと曲弦プラットトラス(カーブがかかっている)とになっています。このプラットトラス部分がかなり古いことが判りました。
ワーレンとかプラットとか、人の名前です。
デザインした人の名前がついたようです。
垂直に入る柱に対して、斜めに入っている柱が並行になっているのがプラットトラス。
垂直の柱がないのがワーレントラス。アルファベットのWそのもので判りやすいです。
こうして橋の構造が少しわかってくると歩く楽しさも倍増!
なんと、この上り線のプラットトラスは明治33年、東京石川島造船所で作られたことが判りました。また桁(線路部分)は昭和37年に撤去された利根川橋梁の桁を転用したもの。昭和38年9月27日に庄川橋梁は開通しましたが実はもっと古い橋だったのですね。
撤去された利根川橋梁の桁はここと旧神岡鉄道の第二高原川橋梁、羽越本線の阿賀野川橋梁に転用されています。
下り線を走るあいの風とやま鉄道列車。
向こう側にわずかに見える赤い橋は大門大橋(だいもんおおはし)です。
庄川河畔に降りて歩くとこんな高さ制限表示があります。
なんだかすぐ倒れそうな感じで心もとなかったです。
だいじょうぶかなぁこれで。
上り線、高岡側のプレートガーダー部分。
この庄川橋梁、高岡大橋、大門大橋と、この辺り歴史的な橋が集まっています。橋の過去の様子も富山県政史を見ると写真があったりして面白いです。厚く、かび臭い本ですが・・・
高岡大橋(たかおかおおはし)を歩く
高岡大橋(たかおかおおはし)を歩きました。
とやまの近代歴史遺産100選、日本の近代土木遺産2800選。
昭和12年竣工。橋長436.2m、幅員7.5m。単純曲弦ワーレントラス5連+鋼鈑桁6連。
県道富山高岡線、高岡市三女子(さんよし)・北野間。庄川に架かる橋です。歩道橋は昭和49年に添架。そして右折レーンも平成6年に左岸側に添架されてかなり大きくなりました。
この橋が出来上がった昭和12年は盧溝橋事件があった年。
盧溝橋は、一つとして同じものがないと言われる獅子頭の装飾があり、美しい石造りのアーチ橋で有名であると同時にこうした暗い歴史の中に残る橋として人の記憶に残る橋。橋の運命もいろいろだな。
高岡大橋、平和のシンボルとは言わないけど、人の往来を長く支えた橋としてこれからもこれまでと同じように私たちが平和に働き続けられるようにそこに在ってほしいと思う。
頭上注意=落雪にご注意です。雪国ならではの表示。
この数年はとても雪が少ないので落雪事故もないと思われます。
昭和12年3月竣工とあります。
そして美空ひばりが生まれた年でもあります。
この年、盧溝橋事件があり日中戦争が始まりました。
盛り上がりがあったあと、まっすぐに平坦になります。
歩道橋は橋の下流側に取り付けられています。
車道になっている古い橋のつなぎ目はこんな感じ。
よく目にするギザギザジグザグではない。
昭和12年当時はこういうのが普通だったのかなぁ。
あれ?一箇所だけこんなところが。
もしかしたら歩道は元はこの赤い部分のような舗装がされていたのかも。
人が歩いてハゲハゲにしてしまったか?
橋脚を見るために川辺へ降りてみた。
工作物占有許可証というのが貼ってある。
橋が迷子にならないための鎖が施してある。
高岡大橋も例外ではないのだ・・・左側が歩道橋。
こんなお花が川辺に咲いていました。
川辺はテニスコートもあったり、楽しめるようになってます。
太田橋(おおたはし)を歩く
富山県高岡市にある庄川(しょうがわ)に架かる太田橋(おおたはし)を歩きました。こちらは昭和13年完成、富山の近代歴史遺産100選。日本近代土木遺産2800選。庄川の河口から数えて14番目になる橋です。
昭和13年に完成した橋と昭和51年に完成した橋と2つで太田橋。上下各2車線。古い橋を残してあるのはすごいと思います。
昭和13年の橋は橋長443m、幅5.5m。鉄筋コンクリート連続T桁橋。
下流側に新設された橋は橋長444m、幅5.75m。活荷重合成鋼鈑桁橋。
高岡から富山方面に向かってこんな感じで道が分かれます。右手は下り線で侵入禁止。富山から高岡方面に向かうのも同じような感じ。
庄川左岸の橋のたもとあたりにこんな駐車場があります。さすがとやま近代歴史遺産。ここに車と停めて歩きました。
庄川河口より19.7kmの表示。根元があやしくなっています。
いよいよ橋を渡ります。高岡から富山方面に向かって昭和13年にできた古い橋の方を歩きます。Rのかかった高欄?がだいぶ傷んでいます。
そして、驚いたことに橋名盤ない!盗まれている!?
歩道から隣にある新しい橋を見ます。新しいといっても昭和51年完成ですからすでに45年経ってますが。
この日、雨が降っていて庄川の水はかなり増えて、しかも濁っていました。
橋は気温?によって伸び縮みするのでこんなふうにつなぎ目で対応するらしい。でもこのつなぎ目、かなり開いているように見えた。
橋の長さは443m。結構長かった。富山には500mを超える長い橋は珍しくない。やれやれ歩き終えて、振り返ってみた。
新しい橋も歩こうと思っていたのですが雨が降っていて気持ちが萎えました。庄川右岸側を歩いて下流にあるとなみ野大橋へ向かうことに。
橋の取り付け道路にはこんな植え込みがしてあります。
新しい橋にはちゃんと橋名盤はありました。道路の起点側に漢字表記がされます。この道路は国道359号線。地元の人はサンゴクセンと呼んでいます。
災害に備えて橋のそばの道路にはこんな表示も目にするようになりました。
古い橋のほうに魅力を感じます。戦争をくぐり抜けて戦後の高度成長を支え、人の生活を支えた橋。この橋がこれからも大切に使われ、そして保存されていくことを願わずにおれません。
常願寺川橋梁(富山地方鉄道)
常願寺川に架かる富山地方鉄道本線、常願寺川橋梁(じょうがんじがわきょうりょう)です。富山市向新庄から水橋常願寺の間にある鉄道橋です。
昭和6年に作られていまだに現役。ここを歩いたわけではないけど、90年の働きに敬意を表して載せることにしました。人間ならとっくにご隠居さまだ。
銅鈑桁橋。482.2m。単線です。
河原の土手道(右岸)を歩いて近づくと、踏切もなく・・・車も通らないし、散歩する人も皆無でした。
富山地方鉄道のことを地元の人は「ちてつ」と呼ぶのですが東京の知人が私がそういうのを聞いて間抜けた「地下鉄」みたいでおかしいと笑ったことを思い出します。運良く、電車が来ました。
嬉しくなって写真を撮ろうと構えたら汽笛を思いっきり慣らされました。
いや・・・あの、飛び込みませんから・・・
線路を走る電車を至近距離から写真を撮るなんてもしかしたら初めてかもしれません。
通り過ぎるまで何枚か急いで撮りました。
やれやれ、電車も行ったし帰ろうかなと思ったら今度は反対方向から電車が。富山ではかぼちゃ電車と呼ばれている馴染みの車両です。
鉄ちゃんではありませんが、電車が目の前を通ると拍手したくなる。
ガタンゴトンというリズミカルな音も楽しい。
単線ですが、ここは立山や宇奈月温泉に向かう地鉄の電車が通ります。
この日はお天気もよく立山の姿もまあまあ。山の稜線を見るにはもう少し風が必要かもしれない。
富山北大橋(とやまきたおおはし)を歩く
橋長451.9m。幅9.85m×2(上下線)
富山市石坂から牛島本町に向けて、神通川に架かる富山北大橋(とやまきたおおはし)を歩きました。神通川河口から数えて、三番目にある橋です。
橋の本体は約452mですが(それだけでも十分に長い)橋に到るまでの高架橋や取り付け道路も含めると全体でなんと1022mもあります。
橋の中央部分にあるちょっとオシャレなデッキから牛島本町方向。
あいにくのお天気で立山連峰がすっきりと見えないのが残念。
高欄にはこんな埋め込みがしてある。富山のますずしの材料になるサクラマス?なのか、シャケなのかよくわからない。
まさか鮎ではないなぁ。
石坂方面の先のほうは長くて収まらない。
富山北大橋は昭和56年着工してから平成11年の完成までなんと18年かけて作られた。総工費は7872百万円。(約79億円)。これが多いのか少ないのか素人にはよくわかりません、、、
富山は富山市呉羽山を境にして県西部(呉西)と県東部(呉東)と二つに分けます。県庁や空港があったり、新幹線が停車する富山駅は呉東。
伝統的な建物や伝承文化のようなものは呉西の方にたくさん残っています。合掌造りの家、こきりこ、むぎや、などの古謡。散居村。高岡商人の考え方とか。
その、呉東と呉西を繋ぐ重要な橋として期待されて作られた富山北大橋。そこにはこんな物語もあります。
呉西の石坂側は昔、8つの集落がある桜谷村という一つの村だったのが、神通川の洪水でたびたび大きな被害にあって、治水工事で馳越線が作られたことで村が2つに分断されたが、この橋でまた一つにつながることができたと特に地元の人たちは喜び、富山北大橋と呼ばず「桜谷の橋」と呼んでいるそうな。
桜谷側にある看板。平成4年橋の完成と共に作られたようだ。こんな歴史があったとは・・・気づけてよかった。